世界遺産は有名だ。
一方で、無形文化はどうか。
ユネスコには無形文化遺産登録が、日本にも無形文化財を保護する仕組みが存在するものの、その存在感は圧倒的に薄い。それはなぜなのだろう。
その原因の一つが、「無形」がゆえのわかりにくさだと思う。たとえば、音楽や踊りは、記録しなければ、その瞬間には存在するものの、そのあとは跡形もなく消え去ってしまう。「目に見えて、指させるか?否か?」人間が物事を認識するときの、わかりやすさが分かれ目なのだろう。
ただ、その音楽や踊りを記録したとしても、なお残る無形文化の分かりにくさは、一体どこに起因するのだろうか?私は無形文化の本質が「見る」ものでなくて「感じる」ものだからかもしれない、と思っている。
だから、私は無形文化をこう定義してみた。
「名もなき人々の生き様、普通に生きる市井の人々のくらし、想い、人生そのもの、そういったまさに「無形」のものによって、息吹を与えられている「かたちあるもの」」本質は「人々の想い」などといった、感じるしかない部分にあると思うのだ。
例えば分類的には、無形文化にカテゴライズされる、民族楽器について考えてみよう。これが無形文化なのは、単に「かたち」の部分を作るための製作技術を習得すればよいというわけではなく、その技術の後ろにある、長い歴史の中で人々がつむいできた思いや、その重み、感覚、そういった無形の部分を「感じて」自分の糧とするところに、重要性があるからだろう。
ただ、その「感じる」という作業が、実に困難なのだ。
そして、そこに無形文化消滅のひとつの根本的原因がある気がしてならない。
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