のび太がいじめられる原因はしずかちゃんにあり!?ドラえもんに見るいじめ問題の構造

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2016.07.15
Photo:http://www.photo-ac.com/main/detail/55533

 「助けて、ドラえもーん!」

 よく聞き覚えのあるこのセリフ。ご存知、のび太くんがジャイアンにいじめられてドラえもんに泣きつくときのセリフである。何気なく見ているドラえもんの世界。実はドラえもんの世界には、現代社会のいじめの構造がある。

 

 文部科学省は、2003年に「いじめ対応へのヒント」という資料を公開している。資料では、いじめは2者間問題ではなく集団の問題であり、いじめには4層の構造があると指摘されている。文部科学省の見解では、いじめには「加害者」「被害者」「観衆」「傍観者」の4つのアクターが存在するとされているのだ。

 

 これをドラえもんの登場キャラクターに当てはめて考えてみよう。いじめられる主体であるのび太は「被害者」である。言わずもがな、いじめの構造の最も中心に存在する。いじめる主体ジャイアンは「加害者」に相当する。現実の世界では、加害者は複数の場合も多い。加害者の周りにいる「観衆」とは、いじめを積極的にあおり、助長する主体のことである。ドラえもんの世界では、「スネ夫」がこれに相当する。

 

 またその他に、いじめの構造の一番外側には「傍観者」という主体がいる。これは、いじめが起こったとしても特段何も干渉しない主体のことを指す。傍観者は「しずかちゃん」に相当する。

 

『いじめの4層構造』(森田・清永, 1986)をもとに一部加筆し筆者作成

 

 一見すると、傍観者はいじめ問題に関与しておらず、構造の中に組み込まれているとは考えにくいかもしれない。しかし、傍観者は直接的にはいじめに荷担することはなくとも、無自覚のうちにいじめの構造を是認している。これは、加害者にとって不関与は暗黙の了解と解釈されるためである。このような考え方に立脚していじめの構造を考えたとき、いじめ問題の責任の所在はしずかちゃんにもあるといえる。文部科学省の「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識と取組のポイント」にも、「いじめをはやし立てたり、傍観したりする行為もいじめる行為と同様に許されない」と記述されている。

 

 ここで、現実の世界のいじめ問題を見てみよう。文部科学省の2014年度統計によると、中学校のいじめ認知件数は5万2971件であった。あくまで当局が認知した数でしかないため、いじめに関するアンケートを行うなどの認知活動に力を入れれば、数値が跳ね上がる可能性もある。

 

 一方で、生徒のいじめの認識に関するこんなデータもある。文部科学省が実施した「全国学力・学習状況等調査」によると、「いじめは、どんな理由があってもいけない」という項目について、全国の公立中学3年生のうち6.5%が「そうは思わない」もしくは「どちらかといえば、そうは思わない」と答えたという。どの学年もいじめを容認する生徒の比率が似通っていると仮定すると、全国で推定約22万8千人の中学生がいじめを容認している計算になる。もちろんいじめの当事者である加害者やそれに近い観衆の意見でもあるだろうが、いじめの認知件数の約4倍である人数の多さを顧みても、全国のしずかちゃんがクラスのジャイアンを容認していることの表れともとれるだろう。

 

 いじめ問題の構造について外国と比較をしたとき、日本では「傍観者」が多いとされている。また、日本の子どもたちは成長していくにつれて傍観者が増加していく傾向がある。一方で、データのあるイギリス、オランダでは傍観者の割合は小学校から学年進行に伴い増加し、中学校段階で減少している。

 

『いじめの国際比較研究』(森田, 2001)をもとに筆者作成

 

 基本的ないじめの4階層構造の中で、傍観者の中から「仲裁者」というアクターが発生することがある。ドラえもんの世界では、強いて言えば「出木杉君」が仲裁者に相当するだろうか。いじめが発生した時に、積極的にいじめを解消しようとしたり否定的な反応を示したりする働きを行う役割のことだ。傍観者がいじめに対し促進作用を持っているのに対し、仲裁者は抑制作用を持っている。日本では学年進行に伴い出木杉君の比率は減少している。

 

『いじめの4層構造』(森田・清永, 1986)をもとに一部加筆し筆者作成

 

 日本とイギリス・オランダで上記のような傾向の違いがみられる背景の1つに、シティズンシップ教育の有無があるという。シティズンシップ教育が浸透しているイギリス・オランダでは、いじめを短絡的に加害者の責任とするのではなく社会を構成する子どもたちそれぞれに責任があるという認識が学年を経るたびに生まれ、結果として学年の上昇につれて傍観者から徐々に仲裁者が生まれていくものと考えられている。

 

 ここでひとつ事例を紹介する。2006年にフィンランドで開発・導入された「KiVa」といういじめ防止プログラムは、「いじめの存続は傍観者の反応で決まる」という考えに基づき、いじめの抑制策として「傍観者」への教育が中心に据えられている。いじめの発生理由は、加害者が力を誇示することにより自らの地位を高めることにあるとされている。もし傍観者が否定的反応や被害者に対しての協力を示せば、いじめは存続しないということだ。

 

 1990年代フィンランドでいじめによる悲惨な事件や自殺が相次ぎ、政府の要請でこのKiVaというプログラムが考案された。生徒たちは、いじめが学級全体の問題であるということを、コンピューターゲームやディベートなどの取り組みを通して体感する。フィンランドのある学校がKiVaプログラムを導入してからの9か月後のいじめ被害件数が、導入していない学校と比較して約2割低かったという事例も報告されている。今ではフィンランドの90%以上の初等教育で「KiVa」が導入されており、更には国外の学校で導入されている例もあるという。

 

 日本に視点を戻そう。傍観者に責任があるという論が正しいとして、実際にクラスの中でいじめの現場に直面したときに、傍観者が仲裁者になれるかというと、話は別だろう。いじめられた生徒をかばおうと仲裁者に名乗り出たばかりに、次のいじめのターゲットとなってしまうケースもある。中には、それが原因で自殺してしまう例もあった。2010年に川崎市で発生した、中学3年生の生徒がいじめを苦として自殺した事件では、亡くなった生徒はいじめを仲裁しようとしたことがきっかけで、いじめのターゲットになってしまったという。

 

 いじめに対して不干渉を保つ「傍観者」であり続ければ特段危険にさらされることのなかった生徒が、正義感ゆえに仲裁者の役割を担ったことで、最終的にはいじめを苦にして自殺してしまうような結末に終わってしまった。非常に悲しく痛ましい事例であるが、全国には未だ表面化していない同様の構造を持つ事例もあるだろう。単にいじめの原因を傍観者に求め、仲裁の役割を担ってもらおうとするアプローチは、傍観者の心情を汲んでいるものといえるのだろうか。

 

 このように、実体として傍観者が原因だとしても、いじめの解消を傍観者に求めるのはいささか酷かもしれない。学校教育レベルで見たとき、文部科学省の「いじめに関する取組のポイント」では加害者と被害者に対するアプローチが中心となっている。全国都道府県教育長協議会総合部会が平成27年に出した『諸外国との比較研究等事業研究報告書 諸外国におけるいじめ問題への対応―市民性の育成を中心に―』では、日本のいじめ対策の特徴として「いじめ対応施策の焦点が、被害にあう子どもの対応を中心とした対策が進められたこと」が挙げられているが、「いじめに関する取組のポイント」にもその片鱗が感じられる。傍観者に対するアプローチも一定盛りこまれているが、果たしてそこに具体性はあるだろうか。

 

 言うまでもなく、いじめの実体は根深い。学校現場では、なくならないいじめ問題を直視し、粘り強く構造を見据えて行動を起こしていくことが求められるだろう。単に「いじめをはやし立てたり、傍観したりする行為もいじめる行為と同様に許されない」とするのではなく、日本においてもKiVaのような具体性を持った取り組みを前進させ、「抑制者」を増加させる方策が求められているのではないだろうか。

 

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